パーシーは合流した軍隊約1,900名の支配を取り戻し、兵士に休息を与え、飲み食いさせ、野戦本部としたマンロー酒場で傷の手当てをさせてから、その日の最後の行軍に出ることとした。午後3時半頃部隊はレキシントンを出発した。
マサチューセッツ植民地部隊の指揮はレキシントンでウィリアム・ヒース准将が執ることになった。その日の早く、ヒースはまずウォータータウンに行き、ジョセフ・ウォーレン(その朝にボストンを離れた)や他のマサチューセッツ安全委員会のメンバーと今後の戦術について話し合った。ヒースとウォーレンはパーシーの大砲や分隊に対応して、大砲の発砲を呼ぶような密集隊形を避けるように民兵に命令を伝えた。その替わりに、パーシーの部隊を囲むように動いて、個々の民兵は最小のリスクで敵部隊に最大の被害を与えるよう遠距離からの狙撃をさせた。
乗馬していた民兵は馬を降り正規兵に近づいて銃撃し、また馬に乗って駆けてこれを繰り返すという戦術を採った。馬の無い民兵は生き残るために遠距離から発砲した。イギリス軍も植民民兵も持っていたのはマスケット銃であり、その射程は高々50ヤード (45 m)であった。それでも兵士の誰かにあたればという期待であった。しかし、散開した分隊を攻撃するのは難しかった。民兵は撤退するイギリス軍に対し弾薬を使い果たすと、その場を離れ、家に帰り、道路沿いにある次の町の民兵に後を任せた。この戦闘で両軍にライフル銃があったという直接の証拠は無い。両軍とも確実にあったのは滑腔銃マスケットであったし、参加した者からもライフル銃に関する証言は無い。植民地の者がマスケット銃よりも3、4倍射程の長く、精度も高いライフル銃を使ったとしたら、民兵は遠距離から精度良く攻撃しイギリス兵を多く殺したであろうし、自分達は危険性が少なかったであろう。しかし、このようなことは起こらなかった。。
傷ついた正規兵は大砲車の上に載せられていたので、民兵集団に向かって発砲したときは、つんのめることになった。パーシーの部隊はしばしば取り囲まれたが、内側に入っているときは戦術的な長所があった。パーシーは必要な所に容易に部隊を動かしたが、愛国者達はその隊形の外側を大きく回り込む必要があった。パーシーは、スミス隊の兵士を縦隊の中央に置き、第23連隊の中隊には縦隊の後衛に着かせた。スミスやピトケアンから愛国者達がどのように攻撃を掛けてくるかを聞いたパーシーは、後衛部隊は1マイルごとに回り込んで交替し、簡単な休憩を取るようにさせた。道路の両側に分隊を送り、一番元気な海兵隊が前衛として進路を切り開いていった。
パーシーは後に次の様に記録している。「反逆者達は散開し不規則なやり方で、しかし忍耐強く決意を持って攻撃してきた。ただし決して戦闘隊形を組もうとはしなかった。実の所、彼らはなすべきことを良く心得ていた。彼らを統率されない暴徒と見ている者がおれば、それは大きな間違いであることが分かっただろう。」ヒースは、中隊レベルの士官に意図的に散開しながら包囲陣を動かし続けさせ、遠くの部隊には追いついてくるように命令を伝えることに成功していた。しかし、マサチューセッツの民兵にはまだ命令系統がはっきりしていないところがあり、多くは命令を無視し、同じ戦術に従うことを続けた。ピッカリングのエセックス郡民兵は、命令されても発砲を拒否した。ヒースとウォーレンは自ら狙撃兵を率いて前線に出ることもあった。戦闘のこの段階は愛国者軍の命令体系が混乱していたと伝えられている。
パーシーの部隊がレキシントンからメノトミー(今日のアーリントン)に入ったとき戦闘が一段と激しくなった。新しく加わった民兵が遠距離からイギリス軍を銃撃し、道の傍の土地所有者は自分の領地の中から狙撃した。狙撃手が狙いを定めるために使われた家もあった。ジェイソン・ラッセルは「イギリス人の家はすなわちその城だ」と言って友人を説得し共に戦い彼の家を守るようにし向けた。ラッセルは自家に留まり、その戸口で殺された。彼の友人は追ってこようとした兵士を撃った後、地下室に逃れたか、殺されたかのどちらかである。ラッセルの家は戦闘の時の銃痕とともに今も残されている。ラッセルの果樹園から待ち伏せを仕掛けようとした民兵の1隊はイギリス軍の分隊に捕まり11名が殺された。このうちの何人かは降伏しても殺されたという。
パーシーは部下の制御が効かなくなっており、オールド・ノース・ブリッジでの死体や見えない敵からの遠距離攻撃による被害に対して報復するために残虐行為を働くようになっていた。ピトケアンやスミス隊の負傷した士官の証言によれば、ボストンに近く人口も多い町になって、パーシーは民兵達が石壁や樹木、建物の陰から狙い撃ちしてくることを理解した。パーシーは分隊を使ってそのような場所から民兵を追い出すようにし向けた。
分隊の若い士官がその命令を誤解しており、兵士が荒らし回り、中にいる誰彼となく殺害するのを止めようとしなかった。酒場の地下室に隠れることを拒んだ無邪気な酔っぱらい2人が、その日の出来事に絡んでいたと疑われて殺された。宣伝価値をあげる為に植民地の者が荒らしや放火について大げさに証言している(植民地政府から補償を得る目的もある)が、道路沿いの多くの酒場が荒らされ酒類を奪われたのは事実である。奪った方が酔っぱらってしまうこともあった。教会のミサ用の銀器が盗まれたが後にボストンで売られて見つかった。メノトミーの住人サミュエル・ホィットモアは3人の正規兵を殺したが分隊に襲われて虫の息となり放置された(ホィットモアはその後仲間に救われ98歳まで生きた)。他の町よりもメノトミーで多くの血が流されたという。ここで愛国者は25名が殺され9名が負傷した。イギリス軍は40名が戦死し、80名が負傷した。それぞれこの日の被害の半数に上った。
メノトミーからチャールズタウン
イギリス軍がケンブリッジに入ると、戦いは激しさを増した。新しく加わった民兵は散開陣形ではなく密集陣を採っていたので、パーシーはワトソンズ・コーナーと呼ばれる交差点で大砲と分隊を使い、民兵に大きな損害を与えた。
その日の早くにヒースはグレート・ブリッジを取り壊しておくよう命じていた。パーシー隊はこの壊された橋に差し掛かって、川の堤が民兵に占拠されているのを確認すると、チャールズタウンに通じる狭い道(今日のポーター広場に近い)を選んだ。この時の民兵は約4、000名に達していて、このイギリス軍の動きを予測しておらず、囲みが崩れた。民兵の1隊が道を見下ろすことになるプロスペクトヒル(現在のサマービル)を占領しようと動いたが、パーシーは大砲の最後の弾を使って彼らを追い払った。
セイラムとマーブルヘッドから新たに民兵の大きな部隊が到着した。彼らはパーシーのチャールズタウンへ向かう道を遮ることもできたが、ウィンターヒルの近くで留まり、イギリス軍の逃避行を許してしまった。この部隊の指揮官ティモシー・ピカリング大佐は正規軍を完璧に打ち破ることを避けておけば、まだ戦争は回避できるという期待を抱いており、それ故にイギリス軍の通過を許したのであるが、後にこの行動を非難する者がでてきた。ピカリングはヒースの命令で部隊を停止させたと主張したが、ヒースはこれを否定した。イギリス軍がチャールズタウンに入るときパーシーの後衛にいたピトケアンの海兵隊が最後の攻撃を凌いだ。この時夕闇が迫っていた。正規兵は丘の上の防御に適した場所に陣取った。2日間寝ていない者もいたし、40マイル (65 km)を21時間の間に行軍し、最後の8時間は戦闘の連続だった。しかし今のイギリス軍は日没を前にして高い場所に陣取り、しかもイギリス海軍の艦船HMSサマーセットの大砲による支援も期待できた。ゲイジは予備隊にしていた第10、第64の2個連隊の歩兵中隊を素早く送り出し、チャールズタウンの高台を占拠して防塁を造らせた。この防塁は完成することなく、2ヶ月後の6月に行われたバンカーヒルの戦いで、民兵達が工作を始める地点となった。ヒースはイギリス軍の取った位置取りを検分し、民兵をケンブリッジに引き上げさせることを決めた。
戦闘の後
翌朝、ゲイジは目覚めて、ボストンがニューイングランド中から集まった民兵の2万人とも言われる大部隊に包囲されていることに気付いた。この時、火薬警鐘の頃とは異なり、血が流されたという噂は本当のことになり、独立戦争が始まっていた。周りの植民地から兵士と物資が送り込まれ、植民地軍の数は膨らみ続けた。大陸会議はこれらの兵士を大陸軍として認め財政的な裏付けも取り始めた。戦争が始まったその時点でも、ゲイジはボストンに戒厳令を布くことを拒んだ。ゲイジはボストンの住人に武器を置くように説得し、その見返りに誰でも町を出て行くことを認めた。
この戦いはその成果や損害から見ると大きな戦闘とは言えない。しかし、耐え難き諸法の背後の政治的戦略と、火薬警鐘の背後の軍事的戦略という観点で見れば、この遠征は戦争を回避するために始めたにも拘わらず戦争に突入させ、所期の目的の武器の押収も果たさなかったということで、イギリス軍の重大な失敗であった。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ
実際の戦闘はイギリスの政策によって戦争へ拡大した。この戦闘から4日以内にマサチューセッツ植民地議会は民兵からおよびイギリス兵の捕虜から多数の宣誓供述書を集めた。戦闘後1週間でゲイジがロンドンに宛てて公式の状況説明書を送ったという情報を得ると、植民地議会はこれら宣誓供述書を100通以上早舟で送った。この報告はゲイジの報告書が届く2週間も前にロンドンの同情的な役人に届けられ、新聞にも掲載された。ゲイジの公式報告書は詳細が曖昧に過ぎて人々の考え方に影響を及ぼさなかった。植民地に対して敵対的であったジョージ・ジャーメインですら、「ボストン市民はまさに国王の軍隊を侵略者にし、勝利を宣言した」と記した。ロンドンの政治家はその政策や命令にも拘わらず、この紛争の責任をゲイジに押しつけようとした。ボストンのイギリス軍ですらレキシントンとコンコードの件でゲイジを非難することになった。
アメリカの大地の上では、植民地にいるおよそ知性あるものはどちらの側に付くかを選ばなければならなくなった。ジョン・アダムズは戦いの次の日にブレインツリーの家を離れ、馬で戦場に向かった。アダムズは「賽は投げられ、ルビコン川を渡った」ことを確信させられた。フィラデルフィアのトマス・ペインは、以前は植民地と本国との議論が「ある種、法の解釈の問題」だと考えていたが、戦いの知らせを聞いて、「イングランドの頑固で気むずかしいファラオを永遠に拒絶」した。ジョージ・ワシントンはマウントバーノン農園で知らせに接し、友人に書き送った「かって幸福で平和であったアメリカの大地が、血で汚されるか奴隷となるかということになった。悲しい選択肢だ!しかし有徳の士はその選択を迷うであろうか?」。辺境の狩人達は6月に戦いの知らせを聞いて、その宿営地をレキシントンと名付けた。その地は現在のケンタッキー州レキシントン市となっている。
遺産
初期のアメリカ政府にとって、この戦争の最初の戦いはイギリスに非があり、アメリカは無実だという印象を持続させることが重要だった。愛国者の準備の経緯、情報操作、警報信号および最初の発砲がどちらからだったかが不明であることは、その後何十年も公に論じられることが希であった。これらの行動に関する供述書は出版されなかったし、供述した者に返却された。レキシントンの戦いを描く絵画は不当な虐殺を主題としている。
どちらの側が責められるべきかという問題は19世紀始めに大きくなった。例えば、年取った参加者の後からの証言は1775年の宣誓供述書の内容とは異なっていた。全員が、イギリス軍が最初の1発を放ったと言っているが、50年前は、「不確か」とう証言だった。全員が反撃したと言っているが、1775年にはそれができたと証言したのは少数だった。レキシントンとコンコードはアメリカ人の意識の中で神話的性格のものになった。伝説が真実よりも重きをなすようになった。完璧な意識変革が起こり、愛国者は無実の者を苦しめたというよりも、彼らの為に積極的に戦った者として描かれるようになった。レキシントンの戦闘を描く絵画は、民兵が抵抗のために立ち上がり反撃したというように描かれ始めた。
1837年、ラルフ・ウォルドー・エマーソンはその「コンコード賛歌」の中で、オールド・ノース・ブリッジでの出来事を不滅のものにした。
漲る川に架かる粗暴な橋の傍で (By the rude bridge that arched the flood,)
その旗は四月のそよ風にも靡かず (Their flag to April's breeze unfurled;)
ここに戦いに巻き込まれた農夫が立っていて (Here once the embattled farmers stood;)
そして、1発の銃声が世界を変えた (And fired the shot heard round the world.)
(エマーソンがしたことは、数時間前にレキシントン広場(1850年代まではレキシントン緑地と美辞的に言われていた)で起こったことをけなすのではなく、コンコードで初めて植民地の者達が指揮官の命令でイギリス正規兵に反撃したことを認めるものである。銃声を聞くことはできなくても、その観念は世界中の多くの者が自由への戦いのための強い印象を与えた。
「その旗は四月のそよ風にも靡かず」について、1775年4月19日のノース・ブリッジには、旗が無かった。有名なベドフォードの旗がその日のどこかで使われたという証言は無い。町の傍の丘の上にあった旗の掲揚柱には自由の帽子とよくわからない旗があったが、イギリス軍が約1時間前に町に入った時に、直ぐに取り払われていた。)
1860年以降、小学校児童の何世代もが、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩、「ポール・リビアの騎行」を暗唱した。歴史上の事実から見ればこの詩には正確でないところがある(例えば、ポール・リビアはコンコードまで辿り着いていない)が、個人が歴史の流れを変えられるという考え方が受け入れられた。
20世紀への変わり目頃に、アメリカ合衆国の親英国派の者がこの戦いの歴史について、より公平な評価を行った。第一次世界大戦の間、ポール・リビアの騎行の映画はアメリカとイギリスの間の不和を助長させるものとして、1917年のスパイ法のもと、没収された。
レキシントンとコンコードでイギリス軍が採った戦術は、しばしばベトナム戦争でのアメリカ軍の戦術と悪い意味で対照される。冷戦時代、アメリカ合衆国右派は民兵を自由な活動の象徴としたが、左派は反帝国主義者とした。今日、この戦いは銃規制論者からも、またアメリカ合衆国憲法修正第二条問題からも引用されることが多い。[1]
1961年、小説家ハワード・ファーストは「四月の朝」(April Morning)を出版した。これは架空の15歳の少年の視点で見た戦闘の証言という体裁を採っている。出版されてからは度々中学校の教材に指定されている。この作品を元にしたテレビ映画が1988年にチャド・ロウとトミー・リー・ジョーンズの出演で制作された。
毎年4月の第3月曜日は、マサチューセッツ州、メイン州およびウィスコンシン州で、愛国者の日(Patriots' Day)がこの戦闘を記念して祝われる。レキシントン緑地とコンコードのノース・ブリッジでは、愛国者の日に戦闘シーンの再現が行われる。
百周年祭
1875年4月19日、アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントとその閣僚が50,000名の市民とともに、戦闘から100周年を祝った。ダニエル・チェスター・フレンチ制作の彫刻「民兵」の除幕式も行われた。その夜はコンコードの農業会館で本格的な舞踏会が開催された。
二百周年祭
コンコードの町は、著名なアメリカ合衆国の市民700人と世界の政治家、軍人、外交官、芸術家、理科学者、人文科学者などを招き、戦闘から200周年を祝った。1975年4月19日、およそ11万人の群衆がコンコードで200周年を祝うパレードを見物した。大統領ジェラルド・R・フォードがオールド・ノース・ブリッジの近くで有名な演説を行った。以下はその一部である。
自由はアメリカの大地で育った。なぜならば、アメリカ独立宣言にうたわれた原則がこの土地に広がったからである。この原則は200年前に宣言された時、夢であり現実ではなかった。今日、それは現実である。平等の精神はアメリカで成熟した。我々に不可分の権利はより神聖なものにすらなった。統治される合意無くして我々の政府はない。他にも多くの国が独立宣言に盛られた自由の原則を自由に受け入れ、それ自体の独立した共和国を創り出してきた。自由に採用され自由に分かち合い、世界を変えてきたのがこの原則である。2世紀前に、コンコードのこの場所で行われた銃撃、「1発の銃声が世界を変えた」という言葉は、この記念の日の今日も鳴り響いている。
フォード大統領は民兵の像の前にリースを捧げ、駐米イギリス大使ピーター・ラムズボサム卿が戦闘で殺されたイギリス兵の墓にリースを捧げるのを、敬虔に見守った。フォードは次に大統領用リムジーンでレキシントンに向かい、5万人の聴衆を前に簡単な感想を述べた。続いて、近くのハンズコム空軍基地から大統領専用機エアフォースワンに搭乗し、南のワシントンD.C.に向かう前にコンコードの上空低く飛行した。
二百周年祭の催しの中には記念切手の発行もあった。切手には画家ヘンリー・サンドハムによる絵画とフランクリン・ミント硬貨が図案化された。二百周年のために幾つかのミュージカルが書かれ公演された。ノーマン・デロ・ジョアの「風刺舞踏」(Satiric Dances)、ジョイス・メキールの「源へ」(Toward the Source)などがあり、デイビッド・フィールディング・スミスの受賞劇「鳥の疾風」(A Flurry of Birds)もあった。