2009年06月30日

この民主化運動の指導者は

この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。

このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、国内の改革を進めていたゴルバチョフが、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。
学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
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中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。

このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。

2009年06月12日

理論展開と他の分野への応用

こうしたオートポイエーシスの概念は、当初、形式的な記述をまったく用いずに展開された。 その後、主としてバレーラと共同研究者らによって、さまざまな数学的概念や形式モデルを用いた研究が行なわれたが、形式的な意味における理論の明確化と発展がなされてきたとは言い難い。 このためもあり、要素還元主義を徹底させ分子生物学の時代を迎えた生物学に対してオートポイエーシスが与えた影響は現在のところわずかなものに留まる。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝


この概念はむしろ、そのシステム論的斬新さから、システム論、情報学、心理療法、経営管理など、生物学以外の分野において広く引用されるところとなっている。 システム論的には、既存のシステム論が、環境内でのシステムの調整機構についてのみ言及し、システムの環境外およびシステムの自己言及を等閑視していたという限界を打破しようとする試みとして受け取られた。 またとりわけ、パーソンズの構造機能主義を逆転させ、自己準拠的社会システム論を模索していたドイツの社会学者、ニクラス・ルーマンがこの概念をコミュニケーションを構成要素とする円環的システムを表すものとして社会システム理論に援用したことは、オートポイエーシスの概念が広く人文科学に知られるきっかけとなった。 一方、河本英夫は、動的平衡システム、動的非平衡システムに代わるシステム概念として、オートポイエーシスを元にした新たなシステム論を展開している。

一方で、バレーラは、オートポイエーシスという用語は本来の産出関係が認められる細胞・免疫・神経システムに限定して用いられるべきであって、そのより一般的なシステム論的本質は単にオートノミー (自律性) と称されるべきだと主張している。

エレイン Parent によって記述された

エレイン Parent によって記述されたジェームズ・グリーア・ミラー(James_Grier_Miller)の生きているシステム理論(Living systems theory):

「すべての生物系が、どのように自身を保守するか、そしてそれらがどのように発展して、そして変化するかについてどのように、「機能する」かについて、生きているシステム理論は一般的な理論である。」
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

「定義上、生物系は、生活の特性を持って、そして(彼・それ)らの環境と相互に作用するシステムを自分で組織化して、公開されている。これはインフォメーションと物質的なエネルギーのエクスチェンジを使って起きる。」

「生きているシステムは単細胞と同じぐらいシンプルであるか、あるいは(ヨーロッパ経済共同体のような) 超国家組織と同じぐらい複雑であり得る。(彼・それ)らの複雑さにかかわらず、(彼・それ)らは生き残って、そして一つの世代を越えて(彼・それ)らの種あるいはタイプの普及を続けるためにそれぞれ同じ不可欠な20のサブシステム(あるいはプロセス)に依存する

2009年06月08日

日本の道徳は、自然を愛した古代日本人の心情を基調とし

日本の道徳は、自然を愛した古代日本人の心情を基調とし、それを応神天皇の頃に伝来したと言われる論語などの言葉を当てはめ説明されるようになった。以来天皇の理想的統治形態は徳治であるとされ、それに基づく帝王教育がされてきた。また、清和天皇以降の歴代天皇は名前に「仁」の文字をもつのが慣例となった。天皇が支配の実権を失った室町時代にも世の乱れを省みない将軍足利義政に対し後花園天皇が苦言を呈したのもこの徳治主義によるものである。江戸時代初期には儒教のひとつ朱子学を中心に仏教や神道などの影響を強く受けて形成された。侍には武士道、商人には、商道など、身分に分かれてそれぞれ道徳が形成されていた。武士道では、「上を敬い、下を導く」と言った上下関係を重んじる傾向が強く、君に忠、親に孝を説く儒教道徳を基本とし、「努力」「忍耐」と言った修行的性格を美徳として
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いる。江戸時代中期、荻生徂徠は朱子学批判を行い、法は道徳とは厳密に区別されるべきであると主張、以後この考え方は国学思想に受け継がれていく。明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容した。なお、明治政府が統一国家としての共有道徳を創生しようとし、天皇制を支柱に伝統的な道徳を再構築したものが教育勅語であったが、これは終戦とともに廃止された。

現在においても、無意識に伝統道徳にしたがって行動していると考えられており、日本人の倫理観を形成している。

日本型管理社会の形成の要因は、この道徳によるところが大きい。

英米の道徳観は、これとはかなり異なる。道徳観は、それぞれの国の文化、宗教、習俗習慣により、かなりの違いがある。

また、現在の学校教育における「道徳」の前身となるものに「修身」がある。

2009年04月24日

チャンドラー・ウォブル

チャンドラー・ウォブル(Chandler wobble) は地球自転軸の微小な振動で、1891年にアメリカ合衆国の天文学者セス・チャンドラーが発見した。433日ぐらいの周期で0.7秒の角度、距離にして3から15mほどの不規則な変動があり、地軸の運動は約26000年の周期の地球の歳差にこの変動が加わっている。

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チャンドラー・ウォブルの量は発見以来変化しており、1910年に最大の変動の量を記録した。気象の季節変化による大気の質量の分布の変動であるとか、地球内部の地球物理学的な変動が原因であるなどと提案されてきた。2000年7月にはアメリカのジェット推進研究所はチャンドラー ウォブルの主な原因は水温や塩分濃度の変化や、風によって引き起こされる海洋循環の変化によって引き起こされる海洋底の圧力の変動が原因であると発表した。

チャンドラー・ウォブルは衛星ナビゲーション・システムにおいて考慮されなければならない要素になっている。地震や、火山活動やエルニーニョ現象や地球温暖化に影響を与えているという説もあるが、それらを裏付けるデータはない。

チャンドラー・ウォブルの量は長期的に変化し、アメリカ海軍のここ数年のデータによれば、2005年の中後半に最小になったが、これは過去にも何度かあった変化であると考えられている。

2009年04月07日

ガレージロック

ガレージ・ロック (Garage Rock) とは、1960年代半ばに台頭したロックの1ジャンル。1980?1990年代に一旦廃れたが、2000年代に入って再評価された。

ガレージロックとはガレージ(車庫)で練習するアマチュアバンドが多かったことに由来する名称である。現象的には、1960年代前半におけるビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスなどのイギリス出身バンドによるいわゆる「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の強い影響を受けたアメリカの若いバンド群主導による草の根的ムーヴメントであるとされる。

音の特徴と傾向 [編集]
50~70年代ガレージ・ロックの範疇にくくられるバンドは雑多であるが、古典的なロックンロールのスタイルにのっとったシンプルなコード進行の曲が多く、ロックの原初的な衝動(初期衝動)がストレートに現れたものが多い。一方で忘れてならないのが、60年代当時流行し始めたLSD等の幻覚剤が音楽にもたらした効果である。ドラッグによるトリップ効果を表現しようという意図は、幻想的な曲作りや、ファズを多用したひずんだギター、シタール等のインド民族楽器の使用につながる。そのためサイケデリック・ロックのほう芽を感じさせるバンドもあり、日本の音楽ジャーナリズムにおいては「ガレージサイケ」、「アシッド・ロック」、「アシッド・パンク」等、と呼称される場合がある。

2000年代以降のガレージロック・リバイバルとして語られるバンドの音は更に雑多でありひとくくりには出来ないが、やはりロックの初期衝動をストレートに現したものが殆どである。尊敬するバンド、影響を受けたバンドとしてはやはり60年代のガレージ・ロックやブルース、ロックンロールバンドを挙げるバンドが多い。しかし、ガレージロック・リバイバルバンドはその多くがドラッグトリップによるサイケ衝動とは無縁であり、むしろ若者の等身大の日常や世界観をシニカルな視線で描写する、現実的な世界観を持ったバンドが多いことが特徴。

音的にはいわゆるオルタナティブ・ロックに近く(もしくは2000年代以降のガレージロック・リバイバルのバンドの場合、ポストパンクの影響も語られる)、その境界は曖昧であるが、多くに共通しているのはリフ主体のギターサウンドだろう(ヘヴィメタルのように深く歪ませたディストーション系の音色ではなく、むしろクランチ気味の乾いた音色が主体)。煌びやかな音響処理やSEを多用した80年代風の豪華な音作りや、スタジオでの多重編集による90年代的な作りこまれた音像とは距離を置いた、力を抜いた音像を持ったバンドが多く、それが録音環境の良くないインディー・アンダーグラウンドのバンドとの類似性を高め、オルタナティブ・ロック/ポストパンクの匂いを強めているとも解釈できる。

1970年代パンクに与えた影響 [編集]
ロンドン・パンクが1970年代後半流行。既存の商業主義化・肥大化したロックに反抗した当時のパンク・ムーヴメントの中で、ロックの初期衝動に忠実ともいえる性急さを特徴とした60年代以前のガレージ・ロックの再評価がなされた。

主要な作品 [編集]
ガレージ・ロックのバンドの多くは、全米的にブレイクすることはなく、その存在は泡沫的なものであった。彼らはアルバムよりもシングルを中心にリリースすることが多かった。それらのシングルの多くはプレス枚数も少ないため現在となっては希少価値のあるもので、手軽に入手するのは困難である。いきおい現代の聴き手は、コンピレーション・アルバム(オムニバス)を通じてガレージ・ロックに接することとなる。そのようなコンピレーション・アルバム(オムニバス)のうち代表的なものは『Nuggets』である。パンク・ミュージシャンであるパティ・スミスのバックを勤めたレニー・ケイ(音楽評論家でもある)が編集した『Nuggets』は、1960年代アメリカのガレージ・ロックがいかなるものであったかを伝えてくれる。

また1960年代のイギリスにおけるガレージ・ロックのコンピレーション・アルバムとしては、『Rubble』が有名である

プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

2009年03月23日

MT比1:1の2両編成または4両編成

MT比1:1の2両編成または4両編成で新製投入され、昇圧前は最大6両編成[12]で使用された。機器類は当時の神宝線の架線電圧である600Vのみに対応していたため、1967年に実施された両線の1500V昇圧においては対応改造の困難な分巻界磁制御器が撤去[13]されて通常の弱め界磁制御器[14]で置き換えられ、主電動機も界磁の結線を変更して通常の直巻電動機に改造され、一般的な抵抗制御、空気ブレーキ車となった。なおこの際、最初の1編成分の床下機器は新たに製造したものに交換して、主電動機など、昇圧後も使用可能な機器のみ昇圧改造した上で次の編成に転用する方式で工事を行い、2000系の最後の昇圧対象編成の工事後に余剰となる電気機器を使用して、2100系の最終編成6両を2000系に編入する工事を行った。

竣工直後には宝塚線にも配置されたが、後述の2100系が投入された後は昇圧時の一時期を除き神戸線で使用された。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

昇圧後、本系列は2100系最終編成6両[15]を合わせて編成組み替えが実施され、基本的には2050-2000-2000+2050-2000-2050-2000となるように[16]7両編成化が実施された。この際、余剰となる2050形6両については3000系や5000系などの他系列編成の増結用として転用の措置がとられた[17]。

また、昇圧後は京都線への入線が可能となり、1970年に開催された日本万国博覧会の際には万博準急に充当されて京都線車両の絶対数の不足を補った他、老朽化したP-6の淘汰が進んだ1972年から1977年にかけては、各線の冷房車の配置バランスの均等化を図る関係から、全車が先述の2100系最終編成とともに一時的に京都線に配置され、7両編成で急行を中心に運用されたが、京都線への5300系の新製配置が進むにつれて順次神戸線への転属が行われ、1977年春まで使用されていた2050Fの7両編成を最後に、全車神戸線に復帰した。

神戸線復帰後の1977年より冷房搭載改造が始まり、屋根の通風ダクトが撤去され、当時阪急の標準冷房装置であった東芝RPU-3003集約分散式冷房装置[18]が各車に3基ずつ搭載された。この際、編成の中間に組み込まれていた一部車両の運転台が撤去[19]され、また、2000形のパンタグラフの大阪寄り移設と大阪寄り広幅貫通路の狭幅アダプタ取り付け、2050形の神戸寄り広幅貫通路の狭幅化およびドア設置改造が実施された[20]。

1979年には、昇圧改造の際に2000系と同性能に改造されていた2100系6両[21]が冷房改造と同時に2000系に編入された。この6両は同系列の続番を付された2021系のさらに後に2042?2044・2092?2094の車両番号が与えられた。これにより、2000系は48両の陣容となった。

1983年には、2100系と編成を組んでいた2055と2059が編成ごと能勢電鉄に譲渡されて同社の1500系(1580形)に改造され、空番を埋める形で2100系の2153と2155が改番されて2代目2055・2059となった。また、1984年5月5日には2050が六甲駅で山陽電鉄車両と衝突して廃車[22]され、代替として2100系2154が冷房化改造の上改番されて2代目2050となった。

同年の今津線の南北分断に伴う同線の5000系との編成交換を皮切りに、支線に転用される編成が出始めた。今津線や伊丹線では3両または6両編成となり、MT比2:1[23]となった。前述の事故による編成変更と絡んで、一旦支線用になった後に本線運用に戻された車両もあったが、最終的には1988年に他形式に組み込まれた2050形を除く全車が支線用となった。

2000系は、単独の編成は他形式で行われた前面への方向幕設置や尾灯の移設工事の対象から外され、8000系の投入で捻出された経年の浅い他系列に置き換えられることとなった。1989年から1992年にかけて廃車が進み、同年のさよなら運転をもって単独編成は消滅した。これらは支線に転入した際に余剰となった3000系に連結されていた2050形や2071系を再連結し、4両編成となった上で能勢電鉄に譲渡(1700系)された。再連結された車両はすべて製造時から中間車の車両である。その一方で、譲渡対象から外れた車両はすべて廃車・解体された。この時点で中間車化された2000形先頭車は消滅し、阪急には2050形のうち他形式中の製造時から中間車の車両と中間車化された先頭車のみが残った。これらも経年から次第に廃車が進み、2005年12月には2000系として製造された車両はすべて除籍された。2代目2055も2008年3月に廃車となり、現在阪急に在籍するのは2100系からの編入車である2093(製造時から中間車)のみとなっている。

2009年03月07日

ボルチモア級重巡洋艦

ボルチモア級重巡洋艦(ボルチモアきゅう じゅうじゅんようかん、Baltimore class)は、アメリカ海軍の巡洋艦の艦級。ボルティモア級重巡洋艦とも呼ばれる。1937年のワシントン海軍軍縮条約失効後、条約の制限に縛られず建造された重巡洋艦である。排水量は14,000トンを超え、排水量が増大した分、防御力は列強の建造した巡洋艦で一、二を争う強固さを誇った。

ウィチタ級重巡洋艦の設計思想を引き継ぎ、55口径8インチ3連装砲3基を備え、水上戦闘能力は当時の水準に達していた。また、前ウィチタ級よりも船体のサイズは大きかったため、副砲群は5インチ単装8基から55口径5インチ連装砲6基に増強され、有効な対空砲火を提供した。装甲はウィチタ級の5インチ、ニューオーリンズ級の5.75インチから6インチ(艦舷)に増強し、船体の拡大と合わせて排水量は9,000トンクラスの条約型重巡洋艦から一気に14,000トンまで増加したが、速度には影響を及ぼしていない。さらに、56口径40mm機関砲(4連装)や38口径20mm機関砲(連装、単装)を多数揃えることで近接対空砲火にも優れ、対艦と対空の双方をこなすことができる汎用艦であった。

改良型はオレゴン・シティ級と分類されることもあり、ボルチモア級の船体を流用して建造されたサイパン級空母などがある。

1941年から建造が開始され、太平洋戦争中の1943年から1945年にかけて完成した。竣工後は要人輸送、機動部隊の護衛、攻略作戦の火力支援(艦砲射撃)、戦隊旗艦など様々な任務に従事した。戦後、一部の艦はミサイルを搭載し、1970年代後半まで現役だった。詳細の艦歴は各艦の記事を参照。

同型艦
ボルチモア (USS Baltimore, CA-68)
ボストン (USS Boston, CA-69/CAG-1)
キャンベラ (USS Canberra, CA-70/CAG-2)
クインシー (USS Quincy, CA-71)
ピッツバーグ (USS Pittsburgh, CA-72)
セントポール (USS St. Paul, CA-73)
コロンバス (USS Columbus, CA-74)
ヘレナ (USS Helena, CA-75)
ブレマートン (USS Bremerton, CA-130)
フォール・リバー (USS Fall River, CA-131)
メーコン (USS Macon, CA-132)
トレド (USS Toledo, CA-133)
ロサンゼルス (USS Los Angeles, CA-135)
シカゴ (USS Chicago, CA-136)
ノーフォーク (USS Norfolk, CA-137)(未成艦)
スクラントン (USS Scranton, CA-138)(未成艦)
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

改良型
オレゴン・シティ (USS Oregon City, CA-122)
オールバニ (USS Albany, CA-123)
ロチェスター (USS Rochester, CA-124)
ノーザンプトン (USS Northampton, CA-125)
ケンブリッジ (USS Cambridge, CA-126)(未成艦)
ブリッジポート (USS Bridgeport, CA-127)(未成艦)
カンサス・シティ (USS Kansas City, CA-128)(未成艦)
タルサ (USS Tulsa, CA-129)(未成艦)

2009年02月19日

レキシントンからメノトミー

パーシーは合流した軍隊約1,900名の支配を取り戻し、兵士に休息を与え、飲み食いさせ、野戦本部としたマンロー酒場で傷の手当てをさせてから、その日の最後の行軍に出ることとした。午後3時半頃部隊はレキシントンを出発した。

マサチューセッツ植民地部隊の指揮はレキシントンでウィリアム・ヒース准将が執ることになった。その日の早く、ヒースはまずウォータータウンに行き、ジョセフ・ウォーレン(その朝にボストンを離れた)や他のマサチューセッツ安全委員会のメンバーと今後の戦術について話し合った。ヒースとウォーレンはパーシーの大砲や分隊に対応して、大砲の発砲を呼ぶような密集隊形を避けるように民兵に命令を伝えた。その替わりに、パーシーの部隊を囲むように動いて、個々の民兵は最小のリスクで敵部隊に最大の被害を与えるよう遠距離からの狙撃をさせた。

乗馬していた民兵は馬を降り正規兵に近づいて銃撃し、また馬に乗って駆けてこれを繰り返すという戦術を採った。馬の無い民兵は生き残るために遠距離から発砲した。イギリス軍も植民民兵も持っていたのはマスケット銃であり、その射程は高々50ヤード (45 m)であった。それでも兵士の誰かにあたればという期待であった。しかし、散開した分隊を攻撃するのは難しかった。民兵は撤退するイギリス軍に対し弾薬を使い果たすと、その場を離れ、家に帰り、道路沿いにある次の町の民兵に後を任せた。この戦闘で両軍にライフル銃があったという直接の証拠は無い。両軍とも確実にあったのは滑腔銃マスケットであったし、参加した者からもライフル銃に関する証言は無い。植民地の者がマスケット銃よりも3、4倍射程の長く、精度も高いライフル銃を使ったとしたら、民兵は遠距離から精度良く攻撃しイギリス兵を多く殺したであろうし、自分達は危険性が少なかったであろう。しかし、このようなことは起こらなかった。。

傷ついた正規兵は大砲車の上に載せられていたので、民兵集団に向かって発砲したときは、つんのめることになった。パーシーの部隊はしばしば取り囲まれたが、内側に入っているときは戦術的な長所があった。パーシーは必要な所に容易に部隊を動かしたが、愛国者達はその隊形の外側を大きく回り込む必要があった。パーシーは、スミス隊の兵士を縦隊の中央に置き、第23連隊の中隊には縦隊の後衛に着かせた。スミスやピトケアンから愛国者達がどのように攻撃を掛けてくるかを聞いたパーシーは、後衛部隊は1マイルごとに回り込んで交替し、簡単な休憩を取るようにさせた。道路の両側に分隊を送り、一番元気な海兵隊が前衛として進路を切り開いていった。

パーシーは後に次の様に記録している。「反逆者達は散開し不規則なやり方で、しかし忍耐強く決意を持って攻撃してきた。ただし決して戦闘隊形を組もうとはしなかった。実の所、彼らはなすべきことを良く心得ていた。彼らを統率されない暴徒と見ている者がおれば、それは大きな間違いであることが分かっただろう。」ヒースは、中隊レベルの士官に意図的に散開しながら包囲陣を動かし続けさせ、遠くの部隊には追いついてくるように命令を伝えることに成功していた。しかし、マサチューセッツの民兵にはまだ命令系統がはっきりしていないところがあり、多くは命令を無視し、同じ戦術に従うことを続けた。ピッカリングのエセックス郡民兵は、命令されても発砲を拒否した。ヒースとウォーレンは自ら狙撃兵を率いて前線に出ることもあった。戦闘のこの段階は愛国者軍の命令体系が混乱していたと伝えられている。

パーシーの部隊がレキシントンからメノトミー(今日のアーリントン)に入ったとき戦闘が一段と激しくなった。新しく加わった民兵が遠距離からイギリス軍を銃撃し、道の傍の土地所有者は自分の領地の中から狙撃した。狙撃手が狙いを定めるために使われた家もあった。ジェイソン・ラッセルは「イギリス人の家はすなわちその城だ」と言って友人を説得し共に戦い彼の家を守るようにし向けた。ラッセルは自家に留まり、その戸口で殺された。彼の友人は追ってこようとした兵士を撃った後、地下室に逃れたか、殺されたかのどちらかである。ラッセルの家は戦闘の時の銃痕とともに今も残されている。ラッセルの果樹園から待ち伏せを仕掛けようとした民兵の1隊はイギリス軍の分隊に捕まり11名が殺された。このうちの何人かは降伏しても殺されたという。

パーシーは部下の制御が効かなくなっており、オールド・ノース・ブリッジでの死体や見えない敵からの遠距離攻撃による被害に対して報復するために残虐行為を働くようになっていた。ピトケアンやスミス隊の負傷した士官の証言によれば、ボストンに近く人口も多い町になって、パーシーは民兵達が石壁や樹木、建物の陰から狙い撃ちしてくることを理解した。パーシーは分隊を使ってそのような場所から民兵を追い出すようにし向けた。

分隊の若い士官がその命令を誤解しており、兵士が荒らし回り、中にいる誰彼となく殺害するのを止めようとしなかった。酒場の地下室に隠れることを拒んだ無邪気な酔っぱらい2人が、その日の出来事に絡んでいたと疑われて殺された。宣伝価値をあげる為に植民地の者が荒らしや放火について大げさに証言している(植民地政府から補償を得る目的もある)が、道路沿いの多くの酒場が荒らされ酒類を奪われたのは事実である。奪った方が酔っぱらってしまうこともあった。教会のミサ用の銀器が盗まれたが後にボストンで売られて見つかった。メノトミーの住人サミュエル・ホィットモアは3人の正規兵を殺したが分隊に襲われて虫の息となり放置された(ホィットモアはその後仲間に救われ98歳まで生きた)。他の町よりもメノトミーで多くの血が流されたという。ここで愛国者は25名が殺され9名が負傷した。イギリス軍は40名が戦死し、80名が負傷した。それぞれこの日の被害の半数に上った。

メノトミーからチャールズタウン
イギリス軍がケンブリッジに入ると、戦いは激しさを増した。新しく加わった民兵は散開陣形ではなく密集陣を採っていたので、パーシーはワトソンズ・コーナーと呼ばれる交差点で大砲と分隊を使い、民兵に大きな損害を与えた。

その日の早くにヒースはグレート・ブリッジを取り壊しておくよう命じていた。パーシー隊はこの壊された橋に差し掛かって、川の堤が民兵に占拠されているのを確認すると、チャールズタウンに通じる狭い道(今日のポーター広場に近い)を選んだ。この時の民兵は約4、000名に達していて、このイギリス軍の動きを予測しておらず、囲みが崩れた。民兵の1隊が道を見下ろすことになるプロスペクトヒル(現在のサマービル)を占領しようと動いたが、パーシーは大砲の最後の弾を使って彼らを追い払った。

セイラムとマーブルヘッドから新たに民兵の大きな部隊が到着した。彼らはパーシーのチャールズタウンへ向かう道を遮ることもできたが、ウィンターヒルの近くで留まり、イギリス軍の逃避行を許してしまった。この部隊の指揮官ティモシー・ピカリング大佐は正規軍を完璧に打ち破ることを避けておけば、まだ戦争は回避できるという期待を抱いており、それ故にイギリス軍の通過を許したのであるが、後にこの行動を非難する者がでてきた。ピカリングはヒースの命令で部隊を停止させたと主張したが、ヒースはこれを否定した。イギリス軍がチャールズタウンに入るときパーシーの後衛にいたピトケアンの海兵隊が最後の攻撃を凌いだ。この時夕闇が迫っていた。正規兵は丘の上の防御に適した場所に陣取った。2日間寝ていない者もいたし、40マイル (65 km)を21時間の間に行軍し、最後の8時間は戦闘の連続だった。しかし今のイギリス軍は日没を前にして高い場所に陣取り、しかもイギリス海軍の艦船HMSサマーセットの大砲による支援も期待できた。ゲイジは予備隊にしていた第10、第64の2個連隊の歩兵中隊を素早く送り出し、チャールズタウンの高台を占拠して防塁を造らせた。この防塁は完成することなく、2ヶ月後の6月に行われたバンカーヒルの戦いで、民兵達が工作を始める地点となった。ヒースはイギリス軍の取った位置取りを検分し、民兵をケンブリッジに引き上げさせることを決めた。

戦闘の後
翌朝、ゲイジは目覚めて、ボストンがニューイングランド中から集まった民兵の2万人とも言われる大部隊に包囲されていることに気付いた。この時、火薬警鐘の頃とは異なり、血が流されたという噂は本当のことになり、独立戦争が始まっていた。周りの植民地から兵士と物資が送り込まれ、植民地軍の数は膨らみ続けた。大陸会議はこれらの兵士を大陸軍として認め財政的な裏付けも取り始めた。戦争が始まったその時点でも、ゲイジはボストンに戒厳令を布くことを拒んだ。ゲイジはボストンの住人に武器を置くように説得し、その見返りに誰でも町を出て行くことを認めた。

この戦いはその成果や損害から見ると大きな戦闘とは言えない。しかし、耐え難き諸法の背後の政治的戦略と、火薬警鐘の背後の軍事的戦略という観点で見れば、この遠征は戦争を回避するために始めたにも拘わらず戦争に突入させ、所期の目的の武器の押収も果たさなかったということで、イギリス軍の重大な失敗であった。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

実際の戦闘はイギリスの政策によって戦争へ拡大した。この戦闘から4日以内にマサチューセッツ植民地議会は民兵からおよびイギリス兵の捕虜から多数の宣誓供述書を集めた。戦闘後1週間でゲイジがロンドンに宛てて公式の状況説明書を送ったという情報を得ると、植民地議会はこれら宣誓供述書を100通以上早舟で送った。この報告はゲイジの報告書が届く2週間も前にロンドンの同情的な役人に届けられ、新聞にも掲載された。ゲイジの公式報告書は詳細が曖昧に過ぎて人々の考え方に影響を及ぼさなかった。植民地に対して敵対的であったジョージ・ジャーメインですら、「ボストン市民はまさに国王の軍隊を侵略者にし、勝利を宣言した」と記した。ロンドンの政治家はその政策や命令にも拘わらず、この紛争の責任をゲイジに押しつけようとした。ボストンのイギリス軍ですらレキシントンとコンコードの件でゲイジを非難することになった。

アメリカの大地の上では、植民地にいるおよそ知性あるものはどちらの側に付くかを選ばなければならなくなった。ジョン・アダムズは戦いの次の日にブレインツリーの家を離れ、馬で戦場に向かった。アダムズは「賽は投げられ、ルビコン川を渡った」ことを確信させられた。フィラデルフィアのトマス・ペインは、以前は植民地と本国との議論が「ある種、法の解釈の問題」だと考えていたが、戦いの知らせを聞いて、「イングランドの頑固で気むずかしいファラオを永遠に拒絶」した。ジョージ・ワシントンはマウントバーノン農園で知らせに接し、友人に書き送った「かって幸福で平和であったアメリカの大地が、血で汚されるか奴隷となるかということになった。悲しい選択肢だ!しかし有徳の士はその選択を迷うであろうか?」。辺境の狩人達は6月に戦いの知らせを聞いて、その宿営地をレキシントンと名付けた。その地は現在のケンタッキー州レキシントン市となっている。

遺産
初期のアメリカ政府にとって、この戦争の最初の戦いはイギリスに非があり、アメリカは無実だという印象を持続させることが重要だった。愛国者の準備の経緯、情報操作、警報信号および最初の発砲がどちらからだったかが不明であることは、その後何十年も公に論じられることが希であった。これらの行動に関する供述書は出版されなかったし、供述した者に返却された。レキシントンの戦いを描く絵画は不当な虐殺を主題としている。

どちらの側が責められるべきかという問題は19世紀始めに大きくなった。例えば、年取った参加者の後からの証言は1775年の宣誓供述書の内容とは異なっていた。全員が、イギリス軍が最初の1発を放ったと言っているが、50年前は、「不確か」とう証言だった。全員が反撃したと言っているが、1775年にはそれができたと証言したのは少数だった。レキシントンとコンコードはアメリカ人の意識の中で神話的性格のものになった。伝説が真実よりも重きをなすようになった。完璧な意識変革が起こり、愛国者は無実の者を苦しめたというよりも、彼らの為に積極的に戦った者として描かれるようになった。レキシントンの戦闘を描く絵画は、民兵が抵抗のために立ち上がり反撃したというように描かれ始めた。

1837年、ラルフ・ウォルドー・エマーソンはその「コンコード賛歌」の中で、オールド・ノース・ブリッジでの出来事を不滅のものにした。

漲る川に架かる粗暴な橋の傍で (By the rude bridge that arched the flood,)
その旗は四月のそよ風にも靡かず (Their flag to April's breeze unfurled;)
ここに戦いに巻き込まれた農夫が立っていて (Here once the embattled farmers stood;)
そして、1発の銃声が世界を変えた (And fired the shot heard round the world.)
(エマーソンがしたことは、数時間前にレキシントン広場(1850年代まではレキシントン緑地と美辞的に言われていた)で起こったことをけなすのではなく、コンコードで初めて植民地の者達が指揮官の命令でイギリス正規兵に反撃したことを認めるものである。銃声を聞くことはできなくても、その観念は世界中の多くの者が自由への戦いのための強い印象を与えた。

「その旗は四月のそよ風にも靡かず」について、1775年4月19日のノース・ブリッジには、旗が無かった。有名なベドフォードの旗がその日のどこかで使われたという証言は無い。町の傍の丘の上にあった旗の掲揚柱には自由の帽子とよくわからない旗があったが、イギリス軍が約1時間前に町に入った時に、直ぐに取り払われていた。)

1860年以降、小学校児童の何世代もが、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩、「ポール・リビアの騎行」を暗唱した。歴史上の事実から見ればこの詩には正確でないところがある(例えば、ポール・リビアはコンコードまで辿り着いていない)が、個人が歴史の流れを変えられるという考え方が受け入れられた。

20世紀への変わり目頃に、アメリカ合衆国の親英国派の者がこの戦いの歴史について、より公平な評価を行った。第一次世界大戦の間、ポール・リビアの騎行の映画はアメリカとイギリスの間の不和を助長させるものとして、1917年のスパイ法のもと、没収された。

レキシントンとコンコードでイギリス軍が採った戦術は、しばしばベトナム戦争でのアメリカ軍の戦術と悪い意味で対照される。冷戦時代、アメリカ合衆国右派は民兵を自由な活動の象徴としたが、左派は反帝国主義者とした。今日、この戦いは銃規制論者からも、またアメリカ合衆国憲法修正第二条問題からも引用されることが多い。[1]

1961年、小説家ハワード・ファーストは「四月の朝」(April Morning)を出版した。これは架空の15歳の少年の視点で見た戦闘の証言という体裁を採っている。出版されてからは度々中学校の教材に指定されている。この作品を元にしたテレビ映画が1988年にチャド・ロウとトミー・リー・ジョーンズの出演で制作された。

毎年4月の第3月曜日は、マサチューセッツ州、メイン州およびウィスコンシン州で、愛国者の日(Patriots' Day)がこの戦闘を記念して祝われる。レキシントン緑地とコンコードのノース・ブリッジでは、愛国者の日に戦闘シーンの再現が行われる。

百周年祭
1875年4月19日、アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントとその閣僚が50,000名の市民とともに、戦闘から100周年を祝った。ダニエル・チェスター・フレンチ制作の彫刻「民兵」の除幕式も行われた。その夜はコンコードの農業会館で本格的な舞踏会が開催された。

二百周年祭
コンコードの町は、著名なアメリカ合衆国の市民700人と世界の政治家、軍人、外交官、芸術家、理科学者、人文科学者などを招き、戦闘から200周年を祝った。1975年4月19日、およそ11万人の群衆がコンコードで200周年を祝うパレードを見物した。大統領ジェラルド・R・フォードがオールド・ノース・ブリッジの近くで有名な演説を行った。以下はその一部である。

自由はアメリカの大地で育った。なぜならば、アメリカ独立宣言にうたわれた原則がこの土地に広がったからである。この原則は200年前に宣言された時、夢であり現実ではなかった。今日、それは現実である。平等の精神はアメリカで成熟した。我々に不可分の権利はより神聖なものにすらなった。統治される合意無くして我々の政府はない。他にも多くの国が独立宣言に盛られた自由の原則を自由に受け入れ、それ自体の独立した共和国を創り出してきた。自由に採用され自由に分かち合い、世界を変えてきたのがこの原則である。2世紀前に、コンコードのこの場所で行われた銃撃、「1発の銃声が世界を変えた」という言葉は、この記念の日の今日も鳴り響いている。
フォード大統領は民兵の像の前にリースを捧げ、駐米イギリス大使ピーター・ラムズボサム卿が戦闘で殺されたイギリス兵の墓にリースを捧げるのを、敬虔に見守った。フォードは次に大統領用リムジーンでレキシントンに向かい、5万人の聴衆を前に簡単な感想を述べた。続いて、近くのハンズコム空軍基地から大統領専用機エアフォースワンに搭乗し、南のワシントンD.C.に向かう前にコンコードの上空低く飛行した。

二百周年祭の催しの中には記念切手の発行もあった。切手には画家ヘンリー・サンドハムによる絵画とフランクリン・ミント硬貨が図案化された。二百周年のために幾つかのミュージカルが書かれ公演された。ノーマン・デロ・ジョアの「風刺舞踏」(Satiric Dances)、ジョイス・メキールの「源へ」(Toward the Source)などがあり、デイビッド・フィールディング・スミスの受賞劇「鳥の疾風」(A Flurry of Birds)もあった。

2009年02月03日

典厩家

細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川持賢を祖とする。摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。京兆家の側近として仕えており、持賢は京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。細川政賢は、永正の錯乱の際、細川澄元に与し細川高国と対立したが、船岡山の戦いで戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。彼は高国の大物崩れの戦いでの没落を知り細川晴元に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

細川氏綱は高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の細川藤賢が典厩家の当主となり、将軍足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。

野州家
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である細川満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。 また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、その政国が典厩家の第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。 このように野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。

阿波細川家
阿波細川氏は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まる。代々阿波守護となった。他の細川庶流家とは異なり室町幕府の相伴衆の家柄であり、京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称された。細川成之のころから讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも言う。また、代々の当主は讃岐守を称したことから讃州家ともいう。

当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。数え方によって変わるが10代で終わる。

詮春から数えて4代目の細川持常は、6代将軍足利義教の信任が厚く、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が義教の陰謀によるものであったため、持常とそれを継いだ成之が三河国に守護権を確立する際には一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。

義教の信任厚い持常は、嘉吉の乱で義教が暗殺された後、赤松満祐征伐のため播磨に出兵するも、山名持豊(宗全)に一歩遅れる形となり、播磨守護職は山名氏のものとなる。播磨を巡る山名氏と阿波細川家の潜在的対立は、持常を継いだ細川成之は赤松家残党による再興運動への助力という形になって現れる。それは当初は友好的な関係にあった山名氏と細川京兆家との関係を悪化を招き、応仁の乱の遠因となる。成之は応仁の乱の際は東軍に味方し、細川京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、細川政元の時代においては、権力集中を図る細川京兆家としばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。孫である澄元を政元の養子に送りこむことに成功するも、それは畿内の争乱をさらに激化させることになり、政元暗殺とその後の永正の錯乱へと発展する。

なお、成之の次子の細川之勝(後の細川義春)は備中守護の細川勝久の養子となっていたが、成之の嫡男の細川政之が早世したため、義春と改名し阿波守護家を継いだ。後に義春の子の細川之持が短期間であるが備中守護となっている。

成之自身は長命であったが、子である政之(1488年没)と義春(1494年没)に先立たれ、さらに1511年の成之の死の翌年には孫の之持が夭折するなど、寿命に恵まれない当主がつづく。若年の当主が続く成之以降の阿波細川家においては、家宰の三好氏が台頭することになる。澄元を擁した三好之長は畿内において細川高国と抗争を続けたが敗れ、澄元もまた京兆家の主導権を取り戻せぬまま夭折する。

一方、之持の子の細川持隆は三好元長の補佐の元で成長すると、澄元の子の細川晴元や元長と協調し足利義維を擁立し、堺公方とするなど幕府と対立を続けた。堺幕府の解体後は、義維を阿波に迎え、平島公方としている。江口の戦いで晴元が没落し、三好長慶が将軍足利義輝をも追放して畿内の実権を握ると、義維の将軍擁立を主張したが、義輝との全面対立を望まない長慶の弟の三好義賢と対立し、天文22年(1553年)、義賢により暗殺されることになる。

持隆の子・真之は、義賢とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかった。長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は、新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟の十河存保に攻められて自刃し滅亡した。

和泉守護家
和泉国では細川庶流二家による、国内を分割しない共同管理方式の守護二人制が採用されていた。両守護家の祖は、細川頼長(頼之の甥)と細川基之(頼之の猶子)である。前者を上守護家、後者を下守護家と呼んだらしい。

守護二人制の採用理由として、和泉国は大国であるがゆえに権力の分散を目的としたとされている。ただし頼長と基之はそれ以前から備後、土佐の守護も併任されており、別に何らかの理由が存在した可能性が推測される。

和泉上半国守護家
細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼長のあと、持有、教春、常有(教春の弟)、元有(常有の孫)と守護職を世襲した。細川元有は和泉下守護家とともに紀伊守護畠山尚順と同盟を組み、管領細川政元と敵対していたが、両守護家は政元に大敗し恭順し、そのため畠山尚順に攻め込まれた。元有が1500年に戦死して以後は衰退し、子・元常の代には守護とは名ばかりで、弟の三淵晴員とともに将軍足利義晴の近臣となっていた。元常には子供がおらず、弟・晴員の次男・藤孝を養嗣子として家督を譲った。

藤孝の後、和泉上半国守護家の流れは次男・興元が継ぎ常陸谷田部藩の祖となった。興元の興の字は兄・細川忠興からのもので、元の字は藤孝の養父・元常に因むといわれる。明治期に子爵に列せられた。なお藤孝の長子である忠興は、幼少期に将軍家の命で奥州家細川輝経の養子となったため、子孫の肥後細川家は系譜上奥州家の流れといえる。

和泉下半国守護家
基之のあと、持久(基之の孫)、勝信(基経の誤記か)、政久が守護職を継承した。政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし尚順に攻め込まれ戦死をとげた。政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入り支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。

備中守護家
頼之の末弟・細川満之を祖とし、細川頼重、細川氏久、細川勝久と代々守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。

備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは1431年に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資(伊豆守)との争乱が勃発し(備中大合戦)、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝(細川義春)は、後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなかった。

以降は阿波守護家の細川之持(義春の子)が一時的に備中守護を継いだ後、数年の空白を経て野州家の細川政春が備中守護となるが、1518年以降、備中守護は空白となる。

政春の子・通政は出雲の尼子晴久の圧迫を受け伊予へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長州藩に仕えた。

淡路守護家
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の弟の細川師氏を祖とする。師氏の子・細川氏春は、和氏の子・清氏が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護。将軍直属軍である奉公衆の一番番頭も務めた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされ断絶した。